9つの情趣(ナヴァ・ラサ)

・シュリンガーラ(恋愛)
・ヴィーラ(勇猛)
・ビーバツァ(嫌悪)
・ラウドラ(怒り)
・ハースヤ(笑い)
・バヤーナカ(恐れ)
・カルナ(悲しみ)
・アドゥブタ(驚き)
・シャーンタ(寂静)

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まず、上記の9つを眺めてみると、
私たちが普段感じる様々な感情であることがわかります。

ですが、これらを9つの「ラサ」といった時には、
単純な「感情」とは別のことなのではないだろうか?
といった疑問が起こりました。

そこで、「ラサ」を辞書で調べてみたところ、
たくさんの意味が見つかりました。

果汁とか、何かの最上の部分、精髄、エッセンスなど、
あるものの最も純粋で成分が凝縮されたもの、というイメージです。

また、「味」という意味もあり、
その場合は食べ物の6種の味があげられます。
(これについてはまた別トピで)

以上のような「ラサ」のイメージから考えると、
「ナヴァ・ラサ」という場合には、「感情」のうちでも、
もっと純粋な凝縮された特別な感情のことを指しているような気がしたのです。

ところで、「感情」を表す単語は、
「ラサ」とは別に9つ(時に8つ)の「スターイバーヴァ」というものがあります。
これは「基本感情」といわれています。

・ラティ:愛の悦び
・ハーサ:笑い、陽気さ
・ショーカ:憂い
・クローダ:怒り
・ウトゥサーハ:力強さ
・バヤ:不安
・ジュグプサー:嫌悪
・ヴィスマヤ:驚き
・(シャマ):落ち着き

順序は違いますが、冒頭のナヴァ・ラサとの対応がよくわかります。
(順序は『モニエル梵英辞典』の記述順に従っています)

ちなみに、スターイ(スターイン)は、「永続的な絶え間なく続く」という意味で、
そうした心の状態をスターイバーヴァといいます。
バーヴァは動詞語根ブー(なる、存在する)からの派生語なので
これは管理人の解釈ですが、常に心の中に存在する状態→日常的な感情
となったのではないでしょうか。

スターイバーヴァの8つの感情は特に意識することもなく
心の中に勝手に生まれては入れ替わっていきます。
突然怒りを感じたり、一目で恋に落ちたり、いきなりおかしくて笑ったり
という経験は、誰にでもあることでしょう。

それに対して、「ラサ」はもっと増幅され、凝縮され、洗練された
感情の精髄なのではないかと考えました。

初めの方で、「ラサ」には食べ物の味という意味もあると書きましたが
その場合、ラサは舌という知覚器官で味わう、いわば味覚の対象です。
それに対して、感情のラサは、マナス(意識、またはマインド)が
感じて楽しむ対象としての「味」なのではないでしょうか。

「ナヴァラサ」は、インドにおいて舞踊、演劇、文学、音楽、美術、詩など
芸術作品には欠かせない感情表現とされています。

私たちは、映画や演劇を鑑賞する時
「コメディー」「恋愛」「悲劇」「アクション」「ホラー」などにジャンル分けして、
それらの中に表されている様々な感情を楽しみます。

このように芸術の中で、感情は作られ、
より純粋な形で表現され、それを「心」が「味わ」います。
ゆえに、日常的感情のスターイバーヴァとは区別されて
「ラサ」といわれるのだという結論となりました。
tenjikuhathi * 9) ナヴァ nava * 01:01 * comments(0) * trackbacks(0)

5つの行為(行動)器官

・言葉(ヴァーチュ):発声するための声帯や舌
・手(パーニ)
・足(パーダ)
・肛門(パーユ)
・生殖器(ウパスタ)

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これら5つは、行為または行動のための器官で
「パンチャカルメーンドリヤ」といいます。
パンチャは5、カルマ+インドリヤ→カルメーンドリヤ
サンディ(連声)のルールに従って音が変わっています。

カルマは、カルマンの複合語における形です。

「カルマ」は「業」と訳されるのでご存知の方も多いでしょう。
その場合も善悪に関わらず、人が行う何らかの「行為」のことですが、
ここでのカルマ・インドリヤというのは、
「行動するゆえに行動器官(行為器官)」といわれます。

だいたいどんな行動をするのか想像できると思いますが、
それぞれの機能を簡単に説明すると…

・声帯や舌(ヴァーク)によって発声し言葉を話すことができます。
・手(パーニ)は物を把握することで仕事など、さまざまな活動をします。
・足(パーダ)によって歩いて移動することができます。
・肛門(パーユ)は、食べられた食物から生じた汚物を排泄します。
・生殖器(ウパスタ)は歓喜と子孫の誕生をもたらします。
 (訳本によっては「子孫の誕生に関する歓び」と解釈しているものもあります)

そして、前述の感覚器官と同様に、それぞれに支配神が定められています。

・発声器官 → アグニ(火神)
・手 → インドラ(天界の王:掴んで離す力を持つ)
・足 → ヴィシュヌ(維持神:自らが望むところに速やかに移動できる)
・排泄器官 → ミトラ(天地の守護者)
・生殖器官 → ブラジャーパティー(創造神)

ちなみに、梵英辞典で「ミトラ」の項目には
アーディテイヤ神群の神の名で、通常ヴァルナと共に祈願が捧げられる
と、書かれています。

食物を味わう舌の支配神がヴァルナであるのに対し、
食物の成れの果てを排泄する肛門の支配神がミトラであるということは
興味深いと思いました。

サーンキャ哲学の25の原理においては、
この5つの行動器官は、前述の5つの感覚器官と共に、
「アハンカーラ」(自我意識、エゴ)から生じるといわれています。
tenjikuhathi * 5) パンチャ panca * 02:00 * comments(0) * trackbacks(0)

5つの感覚器官

・眼(チャクシュ)
・耳(シュロートラ)
・鼻(グラーナ)
・舌(ジフヴァ)
・皮膚(トゥヴァチュ)

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5つの感覚器官のことをサンスクリット語で
「パンチャジュニャーナインドリヤ」または、
「パンチャブッディーンドリヤ」といいます。
パンチャは5、ジュニャーナは知識、ブッディは知性、インドリヤは器官です。
インドリヤは「根(こん)」とも訳されます。

外界の知識(情報)を取り入れる器官で、
私たちはこれらを通して感覚の対象を認識し、理解します。

ウパニシャッドでは、人間を5頭立ての馬車に例え、
これら感官が「5頭の馬」に例えられます。

馬は普通野放しにしていれば、勝手気ままにあちこちをうろつきます。
あちらから人参の匂いがすれば、ふらふらと匂いに誘われますし
気になる雌馬が近づいてくれば、すりすりと寄っていくかもしれません。

同様に、私たちの感官も本能のままに放って置くと
それぞれが勝手に感覚の対象に吸い寄せられていくでしょう。

眼は面白そうに見えるものに、耳は聞こえてくる音の方に、
鼻は芳しい香りのするほうに、舌はおいしいものを味わうことに
皮膚は接触して気持ちがいいものに。

しかし、そのように勝手気ままに振舞われると
自分自身の本体である馬車はバラバラに崩壊してしまうでしょう。

だから、これらの感官をコントロールする必要が出てきます。

感官を制御し、5頭が揃って正しい道(感官の対象が道に例えられます)を進めば、
その馬車に乗っている乗客(アートマン、真実の自己)は
快適に旅をし、目的地(解脱)に達する、とウパニシャッドでは説かれています。

感覚器官の対象に執着すると欲望が増大します。
そのような感覚器官の対象に対する執着を手放すことで、
欲望を滅することができるとされています。

これら感覚器官を通して入ってくる外部の情報に振り回されないように
しっかりと自己をコントロールすべきであるとの戒めではないでしょうか。

いうまでもありませんが各器官の役割とその対象は次の通りです。

・眼(チャクシュ)− 視覚 − 色/形(ルーパ)
・耳(シュロートラ)− 聴覚 − 音声(シャブダ)
・鼻(グラーナ)− 嗅覚 − 香(ガンダ)
・舌(ジフヴァ)− 味覚 − 味(ラサ)
・皮膚(トゥヴァチュ)− 触覚 − 感触(スパルシャ)

また、各器官を支配する神々も定められています。

・眼(チャクシュ)→ 物を見るのに光が必要→ 太陽神(スーリヤ)
・耳(シュロートラ)→ 音を聞くのに空気の動きが必要→ 風の神(ヴァーユ)
   〃 → 3次元的空間において音が聞こえる→ 方位神(ディグデーヴァター)
・鼻(グラーナ)→ 臭いで危険を察知する → 神々の医師(アシュヴィニ双神)
・舌(ジフヴァ)→ 味を感じるには水分が必要 → 水の神(ヴァルナ)
・皮膚(トゥヴァチュ)→ 風が起こると皮膚が感知する → 風の神(ヴァーユ)

後日、5つの行為器官について書くつもりですが、
今回の5つの感覚器官と5つの行為器官を合わせて、10の外官と呼ばれます。
これらは常に外側に向かって働きかけられており、常に「現在」において機能します。
(過去の匂いを今鼻で感じる、とか明日食べるご馳走を今舌で味わう、
なんてありえませんよね)
tenjikuhathi * 5) パンチャ panca * 01:33 * comments(1) * trackbacks(0)

3種の苦しみ

・天から与えられる苦しみ(アーディダイヴィカ)
・他の生き物から与えられる苦しみ(アーディボウティカ)
・自分の中にある苦しみ(アーディヤートミカ)
 −身体的な苦しみ−
 −心的な苦しみ−

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仏教では、人の苦しみを四苦八苦として8つの苦しみと
それらを取り除くための方法としての八正道が説かれていますが、
ヴェーダの流れを汲むサーンキャ哲学では、
取り除かれるべき人間の苦しみを上記のような3種類に分類しています。
これをサンスクリット語では「ドゥッカトラヤ」といいます。

まず、1番目のアーディダイヴィカは天あるいは神からもたらされる苦しみです。
日本語でも「天災」という言葉がありますが、
もしかするとこれはアディダイヴィカの漢訳語なのかもしれません。
(語源をきちんと調べていないので推測に過ぎません)

サーンキャカーリカーのガウダパーダ注釈によれば、
それらは猛暑・極寒・嵐・豪雨・雷などの自然現象です。
他にも、地震・台風・竜巻・旱魃・洪水などが思いつきます。

次のアーディボウティカは、自分以外の他者からもたらされる苦しみです。
これは人間だけでなく他の生き物すべても含まれます。
地上の生き物を、その発生の形で分類すると
大きく分けて4種であると説かれています。
その4種とは、胎生・卵生・湿生・芽生です。
文字を見ればだいたい想像はつくと思いますが、
これらについては別の機会に「4」のカテゴリーでお知らせしたいと思います。

これら4種の自分以外の生き物から与えられる苦しみをアーディボウティカといいます。
他人、獣、鹿、鳥、蛇、ぶよ、蚊、虱、昆虫、ワニ、鮫などの動く生き物だけでなく、
樹木、石などの動かないものも含みます。
(これらの例は、前述の注釈書中のものです)

日本語にも「人災」という言葉がありますが、
辞書によると、これは人間が原因の災害に限られています。
ですが、インドでは人間に限らずすべての他者によるものが
アーディボウティカに分類されます。

最後のアーディヤートミカは、自分の内側にある苦しみのことです。
これはさらに2つに分けられます。

1つは身体的な病気や怪我による苦しみです。
高熱や赤痢、その他ヴァータ・ピッタ・カパの乱れにより生じる病を指します。
(原典が古典なので、アーユルヴェーダに基づく解釈がされています)

もう1つの心的な苦しみは、愛する者との別れや
嫌いな人とつきあわなければならないことだと注釈書には解説されています。
これは、まさに四苦八苦のうちの「愛別離苦」と「怨憎会苦」にあたりますね。

私たちは絶えずこれらの苦しみによって悩まされていますが、
それはすべて私たちが無知だからだといわれています。
無知のことをサンスクリット語で「アヴィドヤー」といいます。

知識によって無知を滅し、苦を取り除き、
最終的には解脱することが、ヴェーダに基づくインド哲学に共通する目的です。

ちなみに、シヴァ神が手に持っている三叉戟(トリシューラ)は
この3種の苦しみを象徴しているもので、
シヴァはこの武器で人をつついて苦しみを与えているのだということです。

シヴァ神
tenjikuhathi * 3) トゥリ(トリ) tri * 01:12 * comments(2) * trackbacks(0)

物質を構成する三要素

・サットヴァ(純質)
・ラジャス(激質)
・タマス(暗質、闇質)

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これら三要素はサンスクリット語で「トリグナ」といいます。
「三徳」と訳している文献もあります。
物質はこれら3つの要素から構成されており
3種の配分によってそれぞれの性質が決まるとされています。

サーンキャ学派では、宇宙の根本原理を「見てるだけ」の精神原理「プルシャ」と
そこから物質世界が開展していくところの根本原質「プラクリティ」を立てています。
そして、プラクリティには上記のトリグナが、
互いに均衡がとれてバランスしている状態で存在しています。

ところが、何かのきっかけでこのバランスが崩れた時に
プラクリティからブッディ(又はマハット)が、そこからアハンカーラ(自我)が、
さらに11の器官と5つの微細な要素(タンマートラ)と
5つの粗大な要素(マハーブータ)が次々に開展していき、
この物質世界が顕現することになります。
(このへんの詳しい説明は別のトピックに譲ることにします)

『サーンキャカーリカー』の第12偈では次のように言われています。

「3種の構成(グナ)要素は、快・不快・消沈が本質であり、
照明・活動・抑止の能力があり、
互いに抑圧し、依存し、生み出し、相伴い、作用し合うものである。」

そして、ガウダパーダは次のように注釈しています。
(ちょっと長いです)

3種のグナは、快を本質とするもの、不快を本質とするもの、消沈を本質とするもので、
それぞれ純質(サットヴァ)・激質(ラジャス)・闇質(タマス)という意味である。

つまり、快の性質を持つものがサットヴァであり、快とは楽しみのことで、
本質的に楽しみを持っているということである。

不快の性質をもつものがラジャスであり、不快は苦しみ、
消沈の性質を持つものがタマスで、消沈とは迷いである。

また、照明・活動・抑止の能力がありとは、
サットヴァは照らし輝くことができるということである。
ラジャスは活動できる、タマスは抑止できる、停止する能力があるということである。
このように、これらのグナは照らし、行為し、停止する。

そして、互いに抑圧し、依存し、生み出し、相伴い、存在し合うこれらのグナは、
互いに抑圧し合い、互いに依存し合い、互いに生み出し合い、互いに相伴い、
互いに存在しあうものであると述べられている。

互いに抑圧し合うとは、互いが互いを押さえつけるという意味で、
快や不快などの特徴を明らかにして現れる。

サットヴァが優勢であるとき、ラジャスとタマスを抑えて自身の性質である快と
照明を本質とするものとして、そこに在る。
ラジャスが優勢なとき、サットヴァとタマスを抑えて、
不快と活動を本質とするものとして在る。
タマスが優勢なとき、サットヴァとラジャスを抑えて、
消沈と停止を本質とするものとして在る、
ということである。

次に、互いに依存するとは、3つのグナは二原子結合のようであると例える。
互いに生み出し合うものとは、粘土の塊が壺を生み出すみたいなもの、
互いに相伴うとは、男女が互いに交わるのと同様に、グナも交わるということである。

このようにも言われている。
「ラジャスの連れ合いはサットヴァで、サットヴァの連れ合いはラジャス。
サットヴァとラジャス両方の連れ合いはタマスと言われている。」
(デーヴィーヴァーガヴァタ 3-8)

互いに連れ合っているという意味である。

互いに作用しあい、互いに存在する。
「グナはグナの中に存在する」(バガヴァットギーター 3-28)
という言葉からもわかる。

(例えば、王の後宮において)心が優しく美しい女はすべての幸せの元であるが、
他の側室たちにとっては、まさに苦しみの元である。情熱溢れる男たちにとっては、
彼女はまさに迷妄を生み出す。
このようにサットヴァは、ラジャスとタマスの作用の原因である。

同様に、常に臣民を護り悪人を取り締まることに勤勉に従事する王は、
善人たちにとって安心をもたらし、悪人たちには苦しみと迷いをもたらす。
この例のようにラジャスは、サットヴァとタマスの作用を生み出す。

同様に、タマスは自己の本質、つまり覆い包むという本質によって、
サットヴァとラジャスの作用を生み出す。

ちょうど、雲々が空を覆って人々に楽を生じさせ、
雨を降らせて農民たちが勤勉に農作業に従事することを生じさせ、
別れた恋人たちに迷いを生じさせる。

このように、グナは相互に作用する。

(『サーンキャカーリカー』ガウダパーダ注釈書英訳からの和訳:文責管理人)

各グナの性質を表すキーワードは以下の通りです。

サットヴァ…善・輝き・照明・正直・親切・上品・謙譲・誠実・忍耐・慈悲・賢
ラジャス……熱情・活動・嫌悪・暴力・嫉妬・虐待・悪・刺激
タマス………闇・停止・緩慢・恐怖・不誠実・不正直・貪欲・無関心・冷淡・無知

また、トリグナそれぞれにはその特性を表す色があります。

サットヴァ=白
ラジャス=赤
タマス=黒

3つのグナに関しては、『バガヴァッド・ギーター』第14章で
これらが身体において、個我を束縛すると説明しています。
tenjikuhathi * 3) トゥリ(トリ) tri * 01:59 * comments(0) * trackbacks(0)
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